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若者文化~モッズ、ロッカー、スキンヘッド、パンク   

今回のカルチャーセンター映画講座のテーマは youth culture (若者文化)。 時代と共に変化する若者文化を音楽とファッションという切り口から考察しようということらしい。1回目に取り上げた映画が、『さらば青春の光』(Quandrophenia, 1979)、2回目が『This is England 』(2006), 3回目が『シド・アンド・ナンシー』(Sid and Nancy 1986) だった。 今回もいろいろと新しいことを学んだ。 おばちゃんの私が学ぶべきことなのかどうか、他にもっと学ぶべきことがあるでしょうと自分でつっこみをいれたいような気もするけれど〈学ぶ〉ということは楽しいし充実感があるし良いことだ、と思う。

『さらば青春の光』は、60年代のイギリスの、モッズ少年の成長記録のような映画だ。ロックバンドのザ・フーが製作に関わっていて、原題のQuandrophenia も、ザ・フーが1973年に出したアルバム「四重人格」からとられている。モッズという言葉は漠然と聞いたことはあって、何かファッションに関係のある言葉だろうなとは思っていたけれど、今回改めて調べてみた。モダニズムを短くした言葉であるモッズは、1950年代後半から60年代にかけてイギリスで流行したファッションのスタイル。細身に作ったジャケットにネクタイ、細身のパンツというモッズスタイルは、テディボーイと呼ばれるスタイルの発展したもの。テディボーイは1950年代に流行した、ちょっと不良っぽいティーンが好んだスタイル。そういえば、前にブログに書いた『17歳の肖像』という映画の中で、主人公の女の子がボーイフレンドを家に招待するときに、厳格な自分の両親にテディボーイと思われないように気をつけてねと彼に釘をさすシーンがあったな。テディボーイ=不良なのだな、とそのとき思った。テディボーイという呼び方はエドワード7世(1901~1910)の愛称のTeddy からきていて、その時代にエドワーディアン・ルックと呼ばれる、やはり細身のファッションが流行したそうだ。細身で長めのジャケットに細身のパンツ、厚底靴にリーゼントというスタイルが1950年代のテディ・ボーイスタイルで、それが進化したものがモッズ。 モッズアイテムとしては、細身の服以外にも、フレッド・ペリーのポロシャツ、丈の長いミリタリーパーカー(今若い女の子が着ているものをもっとぶかぶかにしたようなやつ)、たくさん装飾を施したスクーター(決してバイクではない)があげられる。とにかくおしゃれで、おしゃれのためなら絶食も辞さないくらいの洒落者がモッズ。聴く音楽も決まっていて、モダンジャズや、R&Bなど。 そして、モッズと対抗していたのがロッカー。 この映画では、ブライトンというイギリス南部のレジャータウンで実際に起こったモッズとロッカーの対決が最大の見せ場となっている。ロッカーというのは、言わずもがなで、1950年代にアメリカで発祥したロックンロールを好む若者のファッションを源流としていて、革ジャンにジーンズ、ポマードで固めたリーゼントヘアで大型バイクにまたがるスタイルだ。まさに、男性的というか、野蛮的というか、そんなかんじ。聴く音楽はもちろんハードロック。ロッカーはファッションに力を入れすぎる、なよっとしたモッズを軽蔑しているし、モッズは野卑でセンスのかけらもないロッカーを嫌っている。

1960年代のイギリスでそんな若者の対立があったとは知らなかったな。で、不思議に思ったのが、エルヴィスのこと。エルヴィスは「キング・オブ・ロックンロール」なんていわれているけれど、上に書いたような意味でのロッカーでは絶対にない。だって、ジーンズは大嫌いで着なかったし、革ジャンも1968年のテレビ・ショーのときと、映画の衣装として着たくらいだ。私服はほとんどいつもきっちりした上質のジャケットやパンツだった。それに悪さもしたけれど、体制や親に反発したことはなかったし、ましてや暴力的でもなかった。つまり、いわゆる不良ではなかったわけ。ロッカーというと不良っぽいというイメージがあるけれど、エルヴィスの場合、たまたまロックンロールを歌って成功し有名になったけれど、精神はロッカーじゃなかった。でも、たとえばロッカーに憧れる若者たちが、エルヴィスのように、とイメージしていたのならば、ちょっと不思議な気がする。それは、今回の「シド・アンド・ナンシー」のシド・ヴィシャスのことを調べたときも、同じように感じた。その人につくイメージというのは一度定着するとそれで固まっていくものなのだな。 このことは、またあとで書くとして、その前に『This is England』

サッチャー政権時代の1980年代を舞台にした『This is England』では、モッズから発展したスキンヘッドの少年が主人公。ジェフ先生によると、モッズから、よりファッションに重きを置いたグラムロック系とスキンヘッド系に枝分かれしていったそうな。 グラム・ロック系の代表格といえば、マーク・ボランとかデビッド・ボウイ。いわゆるビジュアル系ですね。お化粧したり羽をつけたりのあでやかなファッション。片やスキンヘッドのファッションは、ベン・シャーマンのチェックのシャツにサスペンダー、ジーンズの裾を巻き上げ、ドクター・マーチンの赤いブーツを見せる。そこまで決まっているらしい。それにしても「かっこよさ」って不思議。関係ない人から見るとち~っともかっこよくないことも関係者の間では必須アイテムになったりするのですから。私の目から見ると、スキンヘッドに一番似合うのは野球のユニフォームのような気がする。その後スキンヘッドは、政治的なことは関心のない穏健タイプと、移民を嫌悪する国粋主義のネオ・ナチ派へと分かれていくのです。だからかなあ、私の中では、スキンヘッド=過激な人、というイメージがある。


そして、『シド・アンド・ナンシー』。1970年代後半にイギリスに現れたパンク・ロックバンドのセックス・ピストルズのベーシストで、21歳の若さで麻薬過剰摂取でこの世を去ったシド・ヴィシャスとガールフレンドのナンシーの破滅の人生が描かれている。サッチャー政権以前のイギリスは全てが停滞し、若者たちはどん詰まりの閉塞感を感じていたそう。そこに突如現れた破壊的で攻撃的なバンドに行き場を失っていた若者たちが飛びつく。セックス・ピストルズの2代目ベーシストになったシド・ヴィシャスはベースもろくに弾けない音楽的には素人の若者だったけれど、恵まれたルックスに加えて、天性ともいえるようなハチャメチャなパフォーマンスが受けた。鋲のついた皮ジャン、破れたTシャツやジーンズといったファッションスタイルはパンクそのもので、後世《パンクの魂》とまで言われるようになった。パンクといえば、セックス・ピストルズであり、シド・ヴィシャスであるとまで認識されている。でも、本当はお母さんっ子で、まだまだ大人になり切れない気の弱いところもある若者だったそうだ。アメリカ人のグルーピー、ナンシーと出会ったことでさまざまな影響を受け、結果的には二人して破滅の人生を歩んでしまうことになるのも悲しい運命だったのか。シドは何か偉大なことを成し遂げたわけではないけれど、パンクというひとつの若者のスタイルの象徴のような存在になった。写真で見てもシドはハンサムでスタイルが良くてベースをもった姿がかっこよく決まっている。中身ではなくて形。そういうのもありなんだと思った。

で、話し戻ってエルヴィスも、エルヴィスといえばロックンロールといわれるが、実は本人はそれほどロックンロールが好きなわけではなかった、と思う。 でも、ロックといえばエルヴィスだ。実はロックをやった人はほかにもたくさんいるけれど、エルヴィスの名がロックのアイコンとして定着した。運があったのはもちろんのこと、エルヴィスのルックス、人間性、そして音楽的な実力、いろんなものが総合的に作用してそうなったのだと思う。音楽を若者に広げ、若者文化としてのロックを形作ったエルヴィスの功績はやはり大きい。私は音楽関係の映画を観るときは、どこかにエルヴィスが出てこないかと目を凝らして見るのだけれど、遭遇率はかなり高いです。今回も出てきましたよ。『さらば青春の光』では、モッズたちがたむろするレストランの壁にエルヴィスのポスターが貼られていたし、『シド・アンド・ナンシー』では、セックス・ピストルズのメンバーの友達の部屋の壁にエルヴィスのポスターがありました。映画『監獄ロック』のポスターでした。 さすがに『This is England』では出てこなかった。まあ、エルヴィスとスキンヘッドなんてかけ離れているものね。3つの映画を観て、戦後から今日まで、さまざまに枝分かれしながら脈々と続いている若者音楽の一番の元は50年代のロックンロールであり、その中心にエルヴィスがいたのだから、やはりすごいことだなあ、と感慨深く思った。

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by oakpark | 2011-02-19 00:18 | 映画 | Comments(0)

やっと出番が?   

去年の4月に中古の戸建てに引っ越して、いろいろ生活スタイルが変わった。春が過ぎ、秋が過ぎ、冬になったころからずっと引っかかっていたことがあった。 いつだったか、やはり戸建てに住む友達とおしゃべりをしていたときのこと、「雪が降るとね、雪かきにその家の個性が出るよ。すぐに出てくる家とか、なかなか出てこない家とか。ご主人ががんばる家とか、奥さんしか出てこない家とか。 そうするとね、最後まで出てこない家とかあってね。自然とそっちの家のほうに雪が集まってしまったりするのよね」 彼女の説明が良かったのか、その光景がぱ~っと私の頭の中に広がった。 そうなんだ。雪かきが始まったら、遅れずに出て行かないと。万事に気がきかず、行動がとろい私には戒めとして、なぜかその友の言葉がとても印象に残ったのだ。

そして冬。寒さが厳しくなるにつれ、私はそわそわしはじめた。夫に「そろそろスコップを買っといたほうがいいんとちゃうかなあ~。 雪が降ってからでは買いにいけないし」と言ってみた。そういう「道具」的なものは夫に買ってきてもらうほうが自然な気がして。 しかし夫は全く私の有益な提案に耳を貸そうとしない。 「そんなんいらんやろ」がそのときの言葉。

で、私は、ことあるごとにあのときの友の言葉を夫に伝えた。私の熱心な説得のおかげで、A型で気が利き、何事も世間並みにこなしていこうとする性質の夫の気持ちが次第に揺れ始めた。 「じゃあ、買っとけば」というまでになった。 でも私は踏ん切りがつかなかった。こういうとき、実家の父なら、「スコップかって来たよ」とすぐに買ってくる筈だ。やはり大型スコップは男衆が買ってこなければ。

ところがいつまでたっても夫はスコップを買って来ようとしない。思い切って「スコップは男性が買ったほうがいいかも」と言ってみたがびくともしない。そういえば、最近車のガソリンも入れてくれない。理由は使うのはほとんど私だからというのだ。車好きのだんなさんを持つお友達は、休日にだんなさんがガソリンも含めて車のメンテナンスはすべてやってくれるといっていたのに。そもそもうちの夫は、男だからこうあるべき、というビジョンがない。 だから、スコップも買ってきてくれないのだ。

そして先週の三連休の前日。全国的に雪が降るという予報を聞いた私はもう我慢が出来なくなった。買い物に出かけたスーパーで、2000円で売っていたスコップをついに買ってしまったのだ。値段も高いし、デザイン(特に色合い)も趣味ではない。 でも、仕方がないではないか。スコップごときで、気に入るものを見つけて奔走する気になれない。 こう見えても私は一応、持ち物にはこだわりを持っている。自分の趣味に合わないものはそばにおいておきたくないほうだ。たとえば、洗濯物干しも洗濯ばさみも白色だ。よくある青いのは趣味に合わない。バケツはグレー。決して青ではない。 だから、雪かきスコップももっと趣味の良いのがよかったのよ、ほんとはね。 実際購入したのはこれ。
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緑にオレンジなんて派手すぎるでしょ!
でも、きっと雪の白の中に埋もれてもすぐに見つかるようにこんな色なのよ、と自分を納得させて購入することにした。そしてすぐに使えるように玄関に置いた。これがつらかった。玄関で趣味に合わないものを目にしなければならないのがつらい。早く雪が降ってしまって役目を終えてくれないかしら、と思っていた。 ところが連休はからぶり。降るには降ったけれど、雪かきするほどは降らなかった。

そして今日。 やっと本格的に雪が降った~。 これで、私がスコップが必要といったのがわかったでしょ、みんな。 明日の朝が楽しみだなあ。 うちの夫はちゃんと雪かきをしてくれるかなあ。 雪かきも男の仕事でしょ、やっぱ。

そしてあさっては晴れという予報だし、趣味の合わない雪かきスコップはその使命を終えて、物置で、永遠の、じゃない、1~2年(か2~3年)の眠りにつくのだ~。

by oakpark | 2011-02-14 23:16 | 雑感 | Comments(2)

高峰秀子特集♪   

去年の12月28日に高峰秀子さんが亡くなったというニュースが入り、買いだめしていた高峰秀子さんのエッセイ「私の渡世日記上・下」を読んだということはここに書きました。そのときに、小津安二郎監督の「宗方姉妹」を観たのですが、その後、気になっていた高峰秀子出演作品を4本観ました。

① 「カルメン故郷に帰る」(1951) 木下恵介監督
② 「浮雲」(1955) 成瀬巳喜男監督
③ 「喜びも悲しみも幾歳月」(1957) 木下恵介監督
④ 「笛吹川」 (1960) 木下恵介監督

さて簡単に感想を書きたいと思います。 が。。。。
最初に断っておきますと、私は今までほとんど古い日本映画を観たことがありません。もちろんこれらの映画世評やこれらの映画に出演している役者の世間に与えられている評価なども全く知りません。 私が曲がりなりにも映画を観るようになったのは80年代後半からですし、それも大した量を観ているわけではないので、映画のことは何もわかっておらず、ましてや芸術面から論じることなんて全く出来ないのであります。つまり、これから書くことは、多少なりとも最近の映画をいくつか観たくらいの経験しかない私の浅はかな感想であります。きっと、「何言ってやがんだ」とか「それはそうじゃないんだよ」とか、いろいろ思われることもあると思うし、人生の大先輩の役者さんたちに失礼なことも書いてしまうかもしれませんが、そのあたりはご容赦願いたいと思います。 これから昔の日本映画を少しずつ見ていきたいと思っていますが、そんな私であることを考慮いただけるとありがたいです。

な~んて書きましたが、別に大それた事を書くつもりではないのです。ただ、昔の、ある程度世間で評価されている映画の感想を書くとなると少し今までとは違った気分で、まあ、早い話が、ちょっぴりビビッています。

① まずこの映画は、物語に入っていくのに時間がかかりました。一体どういう時代? のどかな田園風景の広がる村に登場した、ド派手な服装のこの人たち(高峰秀子と小林トシ子)は何モン? やがて、高峰秀子はこの村の出身で都会に出て成功したというので故郷に錦を飾りに来たのだということがわかってきました。ただ、何をして成功したのだろうかというのがわかりません。本人たちは鼻高々、「私たちは’芸術’をしている」というのですが、村の人々は彼女たちを半ばからかうような目で見ている。ただ一人、高峰の演じるおきんの父親だけが浮かない顔をしている。 どういう設定?と思いました。 そして物語の後半に彼女たちが’芸術’と思い込んでいるのは実はストリップだということがわかってきます。どうりでお父さんが悲しそうな表情をしているわけだ。 彼女たちは村の男たちにのせられるまま、本業のわざを披露して意気揚々と故郷を後にするのですが、のーてんきな女性を高峰秀子が明るく演じています。高峰秀子の作品って、長らく「二十四の瞳」の大石先生イメージしかなかったのですが、「宗方姉妹」にしても実はこういうキャラクターのほうが得意なのではないでしょうか。 「いいことおもいついた!」と叫び、村人の前でストリップショーを演じようと提案した時の高峰秀子の表情のかわいくもこっけいなこと。思わず笑っちゃいました。
で、前から思っていたのですが、笠智衆の台詞回しって、あれは棒読みではないのでしょうか?あれはすばらしい演技なのか、それとも棒読みなのだけれど、彼の個性として映画に溶け込んでいるのだから名演なのでしょうか。そのあたりがよくわからない。 笠智衆だけに限らず、昔の俳優さんの演技は、どうも棒読みに聞こえてしまいます。日本語の響きが当時は違ったのかと思ったりもしましたが、高峰秀子はとても自然にリアルに聞こえる。実はとても演技の上手な女優さんなのではないかとこの映画の時点で思いました。ちなみにこの映画は日本で最初のカラー作品だそうです。役者の顔色を均一にするのにドーラン選びに苦労したと「私の渡世日記」にありました。ではつぎ。

② この映画では一転して、男を惚れぬく執念深い暗めの女性を高峰秀子が演じています。「私の渡世日記」によると、そもそも高峰秀子が映画の世界に入ったのは、たまたま叔父さんに映画撮影の現場を見学に連れて行ってもらい、たまたま子役を探していた現場に遭遇してオーディションを受けることになり、ラッキーにも大勢の候補の中から選ばれたから、だそうですが、そんなふうに映画界に入った俳優さんは他にもきっとたくさんいるだろう中、高峰秀子が、その後長きに渡る俳優生活を続ける羽目になったのは(俳優という職業は好きではなかったらしい)、やはり彼女に稀有の才能があったからではないかと思うのです。 思うに、声が良いですね。 適度に低くて粘りがある声。 この映画の中でも男にしなだれかかるときの甘えたような声は、ただ甘いだけではなく、大人っぽく色っぽく、童顔のお顔からするとちょっと意外な感じの良い声なのですよ。この映画を見て、だから成功したんだな、と私は思いました。相手役の森雅之はまさにはまり役でした。女にもてて、女にだらしないというこういう役がぴったり。ニヒルで自堕落な二枚目ですねえ。高峰秀子も「私の渡世日記」の中で共演男優の中で唯一森雅之のことを褒めていました。この人がいたから「浮雲」を自爆せずに撮り終える事が出来た、と。 最後は物悲しかったです。関口浩のお父さんの佐野周二の若い頃をはじめて見ました。

③ いや~、これはよかったです。長い映画だったけれど、何日かに分けて飽きずに見ました。この人たちの行く末がどうなるのだろうと気になって仕方がありませんでした。ちょうど私も子供たち3人を育てそして巣立たせる直前なので、この映画で描かれる灯台守の夫婦の人生に重ね合わせ、涙しながら観ました。ここでの高峰秀子もうまい。当事33歳くらいですが、初老になって灯台の中の階段を降りるシーンでは、本当に手元足元がおぼつかなげでまさに老女の所作そのものでした。それに対して、相手役の佐田啓二は、それなりに変化を見せていたけれど、演技に重厚さはなかったようにも思いました。(生意気ですみません)  でも、男前だからいいです。 灯台守として日本各地を家族で点々とするうちにさまざまな事件、悲しいことやうれしいことに遭遇する夫婦。時にはけんかをし、時には支えあい、長い夫婦生活を営んでいく様子がとてもリアルで、心に沁みました。 良い映画だと思いました。 昔からこんな映画があったのですね~。 少し調べると、有人の灯台は2006年にすべてなくなり、自動化されたそうです。

④ これは不思議な映画でした。暗くて重い映画。でも、出演者の力のこもったせりふが、画面にかろうじて活力を与え、観続けることができました。そこまで気張らなくてもいいのでは?まるで舞台みたいと思うよなしゃべり方を(ほぼ)全員がしていました。そして観ていくうちに、ああそうだ、これは反戦映画でもあるのだと気づきました。 人がこの世に生を受けたのは、戦って死ぬためではないと思う母の気持ちと、お世話になった人の恩義に報うことこそが大事であると思う若い息子。 いつの時代もこういう食い違いはあるのでしょうね。 子供は親から離れ、それぞれの価値観をを育てていくわけで、親の手の届かないところに行ってしまう。何とかつなぎとめようとして自らの命も失ってしまう母は悲しい。「喜びも悲しみも~」で、のーてんきな若い灯台守を演じていた田村高弘が、ここではさすがの演技です。公開当事高峰秀子より4歳若い32歳。おじいちゃんになってからは歩き方から何からまさに老人そのもの。よくもあんなに化けたなあと思います。 白黒映画の一部にカラーをあとかあらつける不思議な手法が使われています。これに対して非難も声もあるようですが(ネットの感想で)、私は、これによって、リアルさを少し和らげて幻想的な雰囲気してくれたことで救われたような気分になりよかったと思いました。 でなければ、合戦のシーンも多いし、あまりにも重いので。
それにしても、川中島の戦いとか、長篠の戦いとか、歴史の教科書に載っているような合戦で戦った男たちが、高峰、田村夫婦の住むぼろ家に「今帰ってきたぞ」と、普通に、会社勤めから帰ったような口調で言うのがおかしかったです。 戦いや死がすぐ隣り合わせにあった時代。 恩義を尽くす、恨みを晴らす、ただ黙々と生きていく。 人は一体何に価値を見出すのか。 今の世の中にも通じるテーマかもしれないと思いました。
高峰、田村以外にも、松本幸四郎とか、岩下志麻とか、山岡久乃とか、いろいろその後有名になる俳優さんが出ているのですが、大体において木下作品はアップが少なく、俳優が誰というより、物語の全体像を味わう作品でした。 う~ん、不思議な映画だったなあ。 あと、音楽ではなく、鈴とか太鼓とかの音が不気味な雰囲気を出しますね、昔の映画は。 「ぼこ(=こども)」という言葉もはじめてききました。「おぼこい」という言葉はここからきているのかしら。

by oakpark | 2011-02-09 00:47 | 映画 | Comments(5)

久しぶりにアガサ・クリスティ♪   

大学時代後半だったか、社会人になってからだったか、アガサ・クリスティを集中的に読んでいた時期がありました。ミステリーだけれど、おどろおどろしいシーンはあまりなく、上品で豪華な感じがして、当時イギリスに憧れていたこともあって、自分の心情ににぴったりな感じがして、次から次へと読んでいきました。でも、今振り返ってみると、内容はあまり覚えていないのですよね。小説にしても映画にしても、ストーリーをはっきり覚えているのって、よほど意外な展開だったり、子供の頃の無垢な気持ちのときに読んだものに限られるのかしらね。楽しむために深く考えずに読んでいったものって、詳しいストーリーを覚えていなかったりします(あくまで、私の場合)。

というわけで、今回、去年テレビで放映されていて録画していた、アガサ・クリスティー原作の映画3本観ましたが、どれも犯人を覚えておらず(そもそも読んだかどうかも覚えていなかった)、新鮮な気持ちで犯人を予想しながら観る事ができました。今回見た3本とは、「地中海殺人事件」と「ナイル殺人事件」と「オリエント急行殺人事件」。この順番で観ました。さすがに「オリエント急行殺人事件」では、そうだった、そうだった、乗客全員が犯人なんてそりゃないでしょ、と本を読んだときに思ったことを、映画も終盤になってやっと思い出したのでした。

しかし、世の中、私のような健忘症の人は少数派なわけで、多くの人がこの有名なアガサ・クリスティ原作のお話の結末を知っているわけです。 こういう原作が有名な作品の映画化って難しいのでしょうね。どの点から観客を魅了するかによって映画の個性が決まってくるように思いますねえ。 私はこの3作品をほぼ連続で観て、「地中海殺人事件」が一番気に入りました。地中海が舞台ということで開放的な画面だし、ポワロ役のピーター・ユスティノフがコミカルな味を出していて魅力的。ポワロ役は「オリエント~」のアルバート・フィーニーよりピーター・ユスティノフのほうが好きです。「オリエント~」は、ギャラ代が一体いくらかかったの?というくらい豪華なキャストだったけれど、展開が遅く、ポワロがもったいぶってしゃべりすぎで、私はあまり楽しめませんでした。3作品目だったということもあって、疲れてきていたのかもしれないけれど。番組の案内役の山本晋也監督はミア・ファローの演技が光る「ナイル殺人事件」が一番のお気に入りと言っていたけれど、私は、あまりにも次々と簡単に人が死んでいって、しかもみんな平然としていて、そりゃないんじゃない?と思ったなあ。 「地中海~」では、それほど有名な人は登場しないけれど(私が知らないだけかな)、衣装がとっても趣味がよくておしゃれでした。お金持ちのバカンスを描いているわけだから、みなさん高そうな当事最新流行であろう服を着ているようでした。ジェーン・バーキンなんて、地味な内気な新妻を演出しているけれど隠せないくらいおしゃれな着こなしなんだから。内気な新妻があんな胸のはだけた服を着るか!とつっこみたくなりましたよ~。結局、もちろん、最後は、そうではなかったということがわかるのだけれど。最後の自信たっぷりの衣装は似合っていたわ~。ピーター・ユスティノフ演じるポワロの衣装も素敵でした。白~ベージュのスーツが多くて、汚れやすそう~、なんて思ったけれど、白人が着るベージュが明るい太陽の下でとっても映える。 ほんと、日焼けしたブロンドの白人って、白とかベージュがおしゃれに決まるのよね。 いつだったか、欧米人の人に「あなたがた日本人は髪が黒いから黒が似合いますよ」と言いわれたことあるけれど、それあんまりうれしくないかも~。白とかベージュが似合いたかった!

というわけで、「地中海殺人事件」を観た翌日、私は、押入れの中を探し、白とベージュの服を着ました。学校から帰った次女が不思議そうな顔をしていました。冬に着る白って実は大好き。若い頃、白のオーバーも持っていましたっけ。ボタンが金で。バブリーな服だわ。大好きな白だけれど、なかなか普段着に着られない。汚してしまいそうなのだもの。そういえば、私は昔から、買ったばかりの服ももったいなくてすぐには着られないタイプでした。で、大事にしているうちにその流行が去ってしまうってことを何度経験したことか。おしゃれな友達にそのことを話すと、「へ~、私はがんがん着るよ」「だって汚すかもしれないでしょ」と私。すると彼女は「そんなの洗えばいいじゃない。私はエプロンもあまりしないよ」ですって。おしゃれな人はそうなんだなあ。

白を大事にするあまり、白が似合う年齢が過ぎ去ろうとしている気がします。今のうちに白を着ておかなくちゃ。さて、上記映画の監督、出演者は次の通りです。allcinemaで調べていると、アルバート・フィーニーのこんな写真が出てきた。首が肩に埋まったようなぎとぎとしたポワロとぜんぜん違うの。役者ってすごい。
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ポワロはこれだから~。
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ピーター・ユスティノフのポワロ
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「地中海殺人事件」(1982) 監督:ガイ・ハミルトン 出演:ピーター・ユスティノフ、ジェーン・バーキン、 ダイアナ・リグ、ロディ・マクドウォール、マギー・スミス

「ナイル殺人事件」(1978)監督:ジョン・ギラーミン 出演:ピーター・ユスティノフ、ベティ・デイビス、マギー・スミス、ミア・ファロー、アンジェラ・ランズベリー、ジョージ・ケネディ、オリビア・ハッセー

「オリエント急行殺人事件」(1974)監督・シドニー・ルメット 主演:ジャクリーン・ビゼット、アンソニー・パーキンス、ローレン・バコール、イングリッド・バーグマン、ショーン・コネリー、リチャード・ウィドマーク、ヴァネッサ・レッドグレーブ

by oakpark | 2011-02-05 22:29 | 映画 | Comments(2)

久しぶりにシェイクスピア   

久しぶりにシェイクスピアを読みました!
といっても、オリジナルの戯曲形式の読みにく~いバージョンではなく、阿刀田高さんのやさしく解説してくれているバージョン。これです。
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なぜ突然シェイクスピアなんぞを読もうと思ったかというと、きっかけはこのときにも書きかした小学校での朝の本読みなのです。去年度に続き、次女が6年生になった今年度もやっています。去年も書きましたが、朝の本読みのお母さんボランティアは年々減ってきています。特に高学年ではなかなか集まらないのが現状です。かく言う私も今年も立候補はしなかったのですが、なぜか去年と同様、担当のお母さんに道でばったり出会ってしまい頼み込まれてしまいました。これ、不思議なのです。このお母さんにはそのとき以来道で会ったことはないのです。なぜか、4月の図書ボランティア募集の時期に出会うのですよ。不思議だわ。 というわけで今年も引き受けてしまったのですが、次女のクラスのボランティアは4人。この一年で、3回本読みをすることになってしまいました。 まず1回目は星新一SFを読みました。6年生なのでいろんなジャンルに興味を持つ頃かなあと思って。でもちょっと難しかったみたい。2回目は絵本にしようと思い、SFとは真逆のノンフィクションにしました。で、少し調査をし、選んだ本が「ローザ」という絵本。1955年にアメリカのアラバマ州でバスボイコット運動を引き起こし、それをきっかけにキング牧師を中心とした公民権運動が起こったことから『公民権運動の母」と呼ばれたローザ・パークスのことを書いた絵本です。これはなかなかよかったと次女も言ってくれました。そして先日あったラストの三回目。何にしようかなあ~と考え、そろそろ思春期に入る子供たちに、恋愛モノでもよんじゃろかな、と思いついたのです。ただ、思いついたはよかったけれど、小学生が読むのにぴったりの〈恋愛モノ〉が思いつかない。今リバイバル中の『ノルウェイの森』なんて無理だろうしねえ。 というわけでふと思いあたったのが、ありきたりだけれど、『ロミオとジュリエット』。で、こんな本を図書館で借りてきました。
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この、世界少年少女文学全集の『ロミオとジュリエット』には、シェイクスピアの代表作10篇ほどが子供向けにやさしく書いてあるのですが、ぱらぱらと読んでみると、長いお話をほんの数ページにまとめてあるので、つまらないことこの上ない。登場人物の名前をあげ、何が起こったかを簡単にまとめているだけ。たとえば『ロミオとジュリエット』では、あの有名な「おお、ロミオ。あなたはなぜロミオなの? バラはバラという名前でなくてもいい香がするでしょう。だからロミオという名前を捨ててもあなたはあなたのまま」 というせりふさえない。 バルコニーから愛を語りましたとさ、くらいにしか書いていない。これじゃあつまらないなあと思い、結局『ロミオとジュリエット』はあきらめて、家の本棚から、『星の王子さま』を見つけて、私が一番好きな、王子さまときつねとのシーンを読みました。「友達になるには長い時間が必要なんだよ」とか、「一番大切なことは目に見えないんだよ」とかの含蓄のあるフレーズがあるシーンです。これはなかなか子供たちにしみたように感じました。ひとりよがりかもしれないけれど。家にあったのは内藤 濯さん翻訳のものではなく、河野万里子さん翻訳のものでした。これ。
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で、本読みではあきらめたシェイクスピアですが、そういえば、シェイクスピアの有名な作品のあらすじをあまりちゃんと知らないなあとふと思い当たりました。でも、いまさら、あの膨大な作品をいちいち読んでいるヒマも気力もないし。それなら、以前に購入していた阿刀田高さんの本をここらで読もうと決心したのでした。 期待通り、うまくあらすじと読みどころを解説してくれていました。この本で取り上げられている作品は 「ハムレット」「ロミオとジュリエット」「オセロー」「夏の夜の夢」「ベニスの商人」「ジュリアス・シーザー」「ヘンリー四世」「ウインザーの陽気な女房たち」「リチャード三世」「マクベス」「リア王」でした。 これだけあれば十分でしょ。 「読むだけですっきりわかる」シリーズを書いた後藤武士さんも シェイクスピアは教養人の必須アイテムだと言っていましたっけ。 教養人になんて、逆立ちしたってなれないけれど、何とか少しでも教養人とやらに近づくためにはやはりシェイクスピアは避けられない。 でも、いまひとつ、ストーリーがこんがらがるのですよねえ~。それにホラーかというくらい人も死ぬし、納得いかない筋書きもあるし(『ロミオとジュリエット』の眠り薬のくだりなど)、いまひとつ好きになれないような気もするのですが、やはり偉大な作品群なのですよね。みなさんは、シェイクスピアお好きですか? 写真の2冊の本を借りているときにたまたまうちに来た友達は、大学の卒論でシェイクスピアをやったそうで、「この顔見たくもないわ」とはき捨てるように言っていました。よほど悪い思い出があるのでしょうね~。

阿刀田高さんの本で知った最大のことは、ひとごろしいろいろ。 
つまり、シェイクスピアは1564に生まれ、1616年に亡くなったということ。覚えやすくていいわ。

by oakpark | 2011-02-01 23:26 | | Comments(0)